会社を売却した後、「同じ業界で仕事をしてはいけないのか」「新会社を立ち上げると契約違反になるのか」と不安になる経営者は少なくありません。こうした売却後の活動を制限するのが、最終契約書に置かれる競業避止義務です。
競業避止義務は、買い手が取得した顧客基盤、ノウハウ、人材や信用を守るために設けられます。一方、期間・地域・対象事業・対象者を広げ過ぎると、売り手の次の仕事や投資まで必要以上に妨げます。価格だけを見て契約し、クロージング後に「この活動も禁止だった」と気づくのは避けなければなりません。
本記事では、会社売却を検討する売り手向けに、株式譲渡と事業譲渡の違い、契約で確認すべき6項目、交渉手順、必要資料、期間・費用、違反時の対応まで実務に沿って整理します。
競業避止義務とは
競業避止義務とは、一定の期間・地域・事業範囲で、売り手が買い手と競合する事業を行わない義務です。自ら会社を設立する場合だけでなく、競合会社への出資、役員就任、従業員や顧客の勧誘、第三者を介した事業運営まで対象に含める契約もあります。
買い手が競業避止を求める理由は明確です。会社の価値には設備や現預金だけでなく、顧客との関係、従業員の経験、営業上の情報、代表者の信用が含まれます。売却直後に元経営者が同じ顧客へ営業すれば、買い手が支払った対価の前提が崩れる可能性があります。
ただし、競業避止は「同じ業界に一切関われない」という一律の約束ではありません。何が競合に当たるかは、取引形態と契約文言で変わります。売り手は、買い手の保護に必要な範囲と、自分の将来の活動余地の両方を具体化する必要があります。
株式譲渡と事業譲渡では法的な出発点が異なる
会社売却という言葉には、主に株式譲渡と事業譲渡が含まれます。この2つは競業避止義務の考え方が異なります。

| 比較項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡 |
|---|---|---|
| 売買の対象 | 株主が保有する株式 | 会社が営む事業の全部または一部 |
| 会社法21条 | 通常は直接適用されない | 譲渡会社に原則的な規律がある |
| 主な義務の根拠 | 株式譲渡契約の合意 | 会社法上の規律と事業譲渡契約 |
| 売り手が特に確認する点 | 対象者・事業・期間を契約で限定 | 法定範囲と契約による変更の両方 |
株式譲渡は契約条項が中心
株式譲渡では、対象会社そのものは存続し、株主だけが変わります。会社法21条は事業譲渡に関する規定であり、株式譲渡にそのまま適用されるものではありません。そのため、売却する株主や代表者が負う競業避止義務は、主として株式譲渡契約の条項によって決まります。
「業界慣行だから当然」と考えず、誰が、何年間、どの地域で、どの事業を行えないのかを契約書で確認することが重要です。売主が法人の場合と個人株主の場合、創業者が売却後も顧問として残る場合でも設計は変わります。
事業譲渡には会社法上の規律がある
会社法21条では、事業を譲渡した会社は、当事者が別段の意思表示をしない限り、同一の市町村区域と隣接する市町村区域で、同一事業を20年間行ってはならないとされています。特別区も区域に含まれます。また、競業を行わない旨の特約は30年以内の期間で効力を有すると定められています。
これは無条件に全国で20年間禁止する規定ではありません。地域と「同一の事業」という範囲があり、当事者の合意で法定の扱いを変更する余地もあります。オンライン事業、全国に顧客がいるサービス、複数事業のうち一部だけを譲渡する場合は、法定の地域概念だけでは実態に合わないことがあるため、契約で明確にします。
契約で確認する6つの項目

| 項目 | 確認する質問 | 曖昧な場合のリスク |
|---|---|---|
| 期間 | いつからいつまでか | 終了時期が読めず次の事業を始めにくい |
| 地域 | 市区町村、都道府県、国内外のどこか | 活動できる市場が不明になる |
| 対象事業 | 商品、顧客層、販売方法のどこまでか | 周辺事業まで競合と扱われる |
| 対象者 | 売主本人、親族、関係会社の誰か | 第三者の活動まで違反と主張される |
| 例外 | 少額投資、顧問、既存事業は除外されるか | 予定していた活動が止まる |
| 違反時の対応 | 差止め、損害賠償、違約金の条件は何か | 小さな行為でも大きな負担になる |
1.期間は取引後の移行に必要な長さから考える
期間は、顧客関係の移管、キーパーソンの定着、ノウハウの引継ぎに必要な時間を基準に検討します。長ければ買い手は安心しますが、売り手の職業選択や事業活動への影響も大きくなります。「売却日から3年」のように起算日を明記し、役員退任日や顧問契約終了日から数え直すのかも確認します。
競業避止期間と、売却後の引継ぎ・顧問期間は別物です。たとえばクロージング後1年間顧問を務め、競業避止期間が顧問退任後3年間なら、実質的な制限は4年に及びます。複数の契約に同種の条項がある場合は、終了日を一覧にして比較してください。
2.地域は事業の商圏に合わせる
店舗型ビジネスなら、同一市区町村、隣接地域、半径数キロなどの指定が候補になります。SaaS、EC、専門サービスのように顧客が全国にいる事業では、都道府県だけで区切ると実態に合いません。国内、特定国、既存顧客の所在地など、買い手が取得する商圏と対応させます。
売り手が海外で別事業を始める可能性があるなら、「全世界」とだけ書かれた条項をそのまま受け入れないことが大切です。買い手が現に事業を行う地域、合理的に進出を計画している地域、その根拠を確認します。
3.対象事業は抽象語ではなく具体化する
「対象会社と競合する一切の事業」という文言だけでは、将来の新商品や隣接分野まで含むか判断しにくくなります。対象会社が現在提供する商品・サービス、主要顧客層、販売チャネル、契約書の定義語を使って範囲を明確にします。
同じ技術を使っても顧客層が異なる事業、同じ顧客へ提供しても用途が異なる商品など、境界事例を想定すると交渉しやすくなります。売り手がすでに営んでいる別事業がある場合は、開示資料に記載し、明示的な除外を求めます。
4.対象者と間接的な競業を確認する
条項の対象が売主だけか、代表者、役員、親族、売主が支配する会社まで含むかを確認します。「直接または間接に」という表現があると、出資、助言、業務委託、名義貸しなども問題になり得ます。
売主が実際に管理できない親族や少数出資先まで義務を負わせる設計は、履行可能性に問題があります。対象者を列挙し、売主が合理的にコントロールできる範囲かを確かめます。対象者本人の契約参加や誓約書が必要かも事前に整理します。
5.将来必要になる例外を先に書く
例外は「必要になったら買い手へ相談する」だけでなく、できる限り契約締結時に明文化します。上場会社の株式を純投資として少額保有すること、競合性のない既存事業を継続すること、対象会社から依頼された顧問業務、慈善・教育活動などが候補です。
買い手の事前承諾で例外を認める場合は、承諾手続、回答期限、合理的理由なく拒否しないことまで決める方法があります。口頭の了解だけでは担当者交代後に争いになりやすいため、最終契約書か書面のサイドレターに残します。
6.違反時の救済と違約金を読む
違反時には、競業行為の差止め、損害賠償、違約金、売却対価の返還、アーンアウトの不払いなどが規定されることがあります。違約金がある場合は、発生条件、金額または計算式、是正期間、他の損害賠償との重複可否を確認します。
「違反の疑い」だけで支払義務が生じる設計や、軽微な違反にも売却代金全額相当の負担を課す設計は、売り手に大きなリスクです。通知を受けて一定期間内に是正できる仕組み、故意・重大な過失の有無、損害との関係を交渉します。
売り手が使える判断基準
競業避止条項を読むときは、各文言を単独で見るのではなく、制限の強さを総合評価します。期間が短くても、対象事業が広く全国・全世界を対象にすれば影響は大きくなります。
| 判断軸 | 受け入れやすい方向 | 慎重に検討する方向 |
|---|---|---|
| 買い手が取得する価値との関係 | 譲渡する顧客・技術の保護に限定 | 譲渡対象と無関係な事業まで禁止 |
| 範囲の客観性 | 商品、顧客、地域を定義 | 「類似」「関連」だけで判断基準がない |
| 履行可能性 | 売主が管理できる人物・会社に限定 | 親族や少数出資先まで無条件に保証 |
| 将来計画との整合 | 予定する投資・就業を例外化 | 次の仕事が条項に抵触する可能性 |
| 違反時のバランス | 通知・是正機会・合理的な賠償 | 一律高額の違約金、複数制裁の重複 |
交渉は最終契約書の直前ではなく早めに始める
競業避止は売却後の人生設計に直結します。価格が固まった後で初めて問題にすると、売り手が譲歩しやすくなります。基本合意の段階から将来計画を共有し、最終契約書で具体化するのが実務的です。
- 将来の活動を棚卸しする
同業界への再就職、新規事業、投資、顧問、家族会社の関与などを洗い出します。 - 買い手が守りたい価値を確認する
顧客流出、人材引抜き、ノウハウ利用など、懸念を分解します。 - 競合の定義案を作る
期間、地域、商品、顧客層、対象者、例外を表にします。 - 基本合意書で論点を残す
詳細を先送りする場合も、上限や原則を記載します。詳しい進め方は会社売却の基本合意書(LOI)も参考にしてください。 - デューデリジェンス中に例外を開示する
既存投資、兼業、関連会社、計画中の事業を資料で示します。 - 最終契約書を専門家と照合する
競業避止だけでなく、秘密保持、勧誘禁止、表明保証、補償条項との重複を確認します。
準備しておきたい資料
売り手が具体的な資料を用意すると、「広い禁止」から「守るべき範囲」へ交渉を進めやすくなります。
| 資料 | 競業避止との関係 |
|---|---|
| 事業別売上・顧客一覧 | 譲渡対象事業と主要商圏を特定する |
| 商品・サービス一覧 | 競合する商品と周辺商品を分ける |
| 組織図・関係会社一覧 | 対象者と管理可能な範囲を確認する |
| 既存の投資・兼業一覧 | 契約上の例外候補を示す |
| 売却後の就任・顧問契約案 | 役割と競業避止期間の重複を確認する |
| 将来計画メモ | 再就職、新規事業、資産運用への影響を把握する |
買い手へ渡す資料は、秘密保持契約の範囲と開示段階を確認します。会社売却全体の資料準備は会社売却の必要書類で整理しています。
よくある失敗
「業界に戻らないつもり」で広い条項を受け入れる
売却時点では引退予定でも、数年後に取引先から顧問を依頼されたり、投資先の経営支援を頼まれたりすることがあります。意図的な起業だけでなく、出資や助言が「間接的な競業」に当たる可能性も確認してください。
秘密保持・勧誘禁止との重複を見落とす
競業避止期間が終わっても、秘密保持義務が長期間または無期限で残る契約があります。また、従業員や顧客への勧誘禁止が別条項になっていることもあります。条項ごとの期間と対象を一覧にし、実質的な制限期間を把握します。
口頭で認められた例外を契約書に残さない
交渉担当者が「その投資は問題ない」と説明しても、契約書に完全合意条項があれば口頭説明を主張しにくくなる可能性があります。重要な例外は別紙を含む契約文書へ明記します。
違約金だけを見て差止めを見落とす
金銭負担だけでなく、事業停止の仮処分や差止めを求められるリスクがあります。新会社に従業員や投資家がいる場合、事業を止める影響は違約金以上です。紛争時の管轄、通知、是正手続も確認します。
3つの具体例
店舗事業を譲渡するケース
東京都内の飲食店1店舗を事業譲渡し、売り手が将来別ブランドで開業したいケースです。買い手は近隣顧客と従業員の流出を懸念します。売り手は対象地域を店舗から一定範囲に限定し、別価格帯・別業態を除外する案を示せます。会社法上の原則だけでなく、デリバリーやSNS集客をどう扱うかを契約で具体化します。
SaaS会社を株式譲渡するケース
全国向けSaaS会社の全株式を譲渡し、創業者が将来別分野で起業したいケースです。地域制限より、対象機能、顧客規模、用途の定義が重要になります。「すべてのIT事業」を禁止するのではなく、売却時点の商品と直接競合するサービスを定義し、少額の純投資や教育活動を例外にする設計が考えられます。
売却後も代表者が顧問として残るケース
売り手が2年間顧問として顧客引継ぎを支援するケースでは、顧問契約と株式譲渡契約の双方に競業避止が入る可能性があります。起算日が異なると制限が想定以上に長くなるため、クロージング日から数えるのか、顧問終了日から数えるのかを統一します。顧問業務そのものが例外であることも明記します。
検討にかかる期間と費用
条項の初回確認だけなら数日で進む場合がありますが、複数事業、海外展開、関係会社、売却後の就任条件が絡むと、契約交渉に1〜2週間以上を要することもあります。これは法定の期間ではなく案件ごとの目安です。最終契約書の直前に始めず、基本合意後の早い段階で論点を出します。
弁護士費用には全国共通の固定額があるわけではありません。M&A契約全体のレビュー報酬に含まれる場合、時間制で請求される場合、条項交渉を別料金とする場合があります。依頼前に、契約書レビュー、修正文案、買い手との交渉参加、税理士との連携が見積りに含まれるか確認してください。
| 段階 | 目安 | 売り手の作業 |
|---|---|---|
| 将来計画の整理 | 1〜3日程度 | 予定する就業・投資・起業を列挙 |
| 条項案の確認 | 数日〜1週間程度 | 6項目と他条項の重複を確認 |
| 相手方との交渉 | 1〜2週間以上の場合もある | 範囲の根拠、例外、救済を調整 |
| 専門家費用 | 契約・案件により異なる | 業務範囲と追加報酬を見積りで確認 |
税務・会計・法務上の注意
競業避止義務について売却対価と別に対価を定める場合、その金額の合理性、契約当事者、税務・会計上の処理を確認する必要があります。名目だけで区分しても、実態と整合しなければ想定した処理にならない可能性があります。売り手が個人か法人か、株式譲渡か事業譲渡かでも論点は変わるため、契約締結前に税理士へ確認してください。
法務面では、競業避止条項だけを切り離さず、秘密保持、顧客・従業員の勧誘禁止、表明保証、補償、解除、紛争解決と一体で読みます。表明保証については会社売却の表明保証、契約全体は会社売却の契約書も参考にしてください。
中小企業庁「中小M&Aガイドライン」でも、中小M&Aを適切に進めるための基本事項や支援機関の行動指針が示されています。条項の意味やリスクが分からないまま署名せず、M&Aと契約実務に詳しい弁護士、税理士、支援機関へ相談することが重要です。
売主向けチェックリスト
- 取引が株式譲渡か事業譲渡かを確認した
- 義務を負う人・法人を列挙した
- 起算日と終了日をカレンダーで確認した
- 禁止される商品・サービス・顧客層を具体化した
- 地域が実際の商圏と合っている
- 出資、顧問、再就職、関連会社の活動を確認した
- 既存事業と将来計画を買い手へ開示した
- 必要な例外を契約書に明記した
- 差止め、損害賠償、違約金、対価返還を確認した
- 通知と是正期間が設けられている
- 秘密保持・勧誘禁止との重複を確認した
- 別対価がある場合の税務・会計処理を確認した
- 専門家が最終契約書全体を確認した
よくある質問
会社を売ったら同じ業界では二度と働けませんか?
一律に禁止されるわけではありません。株式譲渡では主に契約条項、事業譲渡では会社法上の規律と契約内容によって決まります。期間、地域、対象事業、役割を確認してください。
株式を少し持つだけでも違反になりますか?
契約文言によります。競合会社への出資を間接的な競業に含める条項もあります。上場株式の少額保有など純投資を認めたい場合は、保有割合や経営関与の有無を例外として明記します。
競業避止期間は何年が一般的ですか?
取引形態、顧客関係、引継ぎ期間、業界の変化速度によって異なり、一律の正解はありません。事業譲渡の会社法上の原則と、契約で合意する期間は区別して検討します。
全国での競業禁止を求められたら応じるべきですか?
対象事業の商圏が全国なら合理性がある場合もありますが、地域密着型事業で全国禁止が必要かは検討が必要です。買い手が取得する顧客・営業地域との対応を確認し、必要以上の範囲は限定案を提示します。
買い手の許可があれば新事業を始められますか?
事前承諾による例外が契約にあれば可能性があります。承諾方法、回答期限、承諾を拒める条件を明確にし、必ず書面や電子記録で残します。
違反すると必ず違約金を払いますか?
違約金の有無と発生条件は契約によります。差止めや損害賠償が別に認められる設計もあります。金額だけでなく、通知、是正機会、他の救済との重複を確認してください。
クロージング後に条件を変更できますか?
当事者が合意すれば変更契約を結べる場合がありますが、買い手が応じるとは限りません。売却前に将来計画を整理し、最終契約書へ反映する方が確実です。クロージング当日の実務は会社売却のクロージングで解説しています。
誰に相談すればよいですか?
条項の有効性や紛争リスクはM&A・契約実務に詳しい弁護士、対価の配分や課税は税理士・公認会計士へ相談します。仲介会社やFAから説明を受ける場合も、最終的な法務・税務判断は各専門家に確認してください。
売却価格と同じくらい、売却後の自由を確認する
競業避止義務は、買い手が取得する事業価値を守るために重要です。同時に、売り手の売却後の働き方や投資、新規事業を左右します。大切なのは、競業を一切認めるか拒むかの二択ではなく、買い手が守るべき価値に合わせて範囲を具体化することです。
株式譲渡と事業譲渡の違いを確認し、期間・地域・対象事業・対象者・例外・違反時の対応を一つずつ整理してください。将来計画を早めに開示し、最終契約書だけでなく関連条項まで専門家と確認することで、売却後の想定外を減らせます。
※本記事は一般的な情報提供を目的とするもので、個別案件に関する法律・税務・会計上の助言ではありません。契約条件や課税関係は取引形態と事実関係により異なります。実際の会社売却では、弁護士、税理士、公認会計士などの専門家へご相談ください。